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オラトリオ編 終了
 終わってしまいました。。。

 ジャコモ・カリッシミ生誕400周年記念コンサート「オラトリオ編」も無事終了いたしました。お忙しい中、ご来場下さった皆様、ありがとうございました。
 
 カリッシミの音楽の魅力にどっぷり浸かった1週間でした。特に「ヨナ」の最終合唱の「Lamentamini」の節を歌っているときは、「このままこの曲が終わらなければいいのに。。。」と思うほどでした。
 ご来場いただいた皆様にもカリッシミの魅力を十分味わっていただけたかと思います。 

 ここ数年、素晴らしいイタリア・バロック音楽がもっともっと日本で演奏される機会を作りたい、と願い、今回は日本とイタリア両国での私たちのCarissimi Amici と共にカプアーノ氏という今回のプログラムに最適の指揮者を迎えて、その第一歩が実現出来た事を本当に嬉しく思います。
 今後もいろいろな形で、皆様にイタリア・バロック音楽をもっとご紹介出来る機会を作りたいと思います。どうぞお楽しみに。


 

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by carissimi | 2005-07-25 08:39 | カリッシミ生誕400周年
オラトリオ編 プログラム
ジャコモ・カリッシミ生誕400周年記念コンサート
「オラトリオ編」
2005年7月22日(金)東京カテドラル聖マリア大聖堂

【プログラム】

第1部

1. Annunciate Gentes 人々よ、告げ知らせよ

2. Exurge cor meum 我が心よ、弦の響きに立ち上がれ
1声と2本のヴァイオリンのためのモテット

3. Jephte エフタ

♪♪♪ 休憩(15分) ♪♪♪

第2部

4. O Stupor et gaudium おお、驚きと喜び
2声と2本のヴァイオリンによるアッシジの聖フランチェスコに捧げるモテット

5. Jonas ヨナ


ソプラノ:長田晶(3,4,5)、小池智子(1,3,4,5)、
アルト:穴澤ゆう子(1,3,5)、彌勒忠史(1,3,5)
テノール:櫻田亮(2,3,5)、長尾譲(1.5)、
バス:萩原潤(1,5)、小田川哲也(3,5)

バロック・ヴァイオリン:益田弥生、伊左治道生
バロック・チェロ:西澤央子、ヴィオローネ:西澤誠治

指揮&オルガン:ジャンルーカ・カプアーノ


§ご挨拶
 みなさん、こんばんは。今夜、日本での初めてのコンサートを指揮することに、とても大きな楽しみと喜びを感じています。これまでこの素晴らしい国の生活習慣、伝統、そして芸術についての記事をたくさん読みましたが、いまそれらの全てを自分のこの目で見るチャンスと、その代わりに私とイタリアの芸術を皆さんにお届けするチャンスを得ることができました。
 私はカリッシミの音楽に多くの時間を割いてきました。そして今年は彼の生誕400年にあたるということで、世界的にみても充分に演奏されているとは言い難いこの偉大な作曲家の姿を、ヨーロッパでも数多くのコンサートで取り上げる機会を持つことが出来ました。彼の音楽的遺産を襲った大変な不幸(1773年のイエズス会解散により完全に散失)のため、彼の作品の大部分は未だ世に知られていないままです。彼の手によって書かれたと確定される音符はただの一つも現存しておらず、そのため彼の作品の原作者推定には大変な困難を伴います。にもかかわらず彼の音楽は、バロック時代の音楽の最高峰のひとつとしてそびえ立ち、また歴史的により幸運だったその時代のもう一人の巨匠、クラウディオ・モンテヴェルディとも並び称されるのです。カリッシミの音楽を聴いた方はすぐに彼の音楽の偉大さが分かるでしょうし、今夜演奏される2つのオラトリオ、《エフタ》と《ヨナ》はその中でも最高傑作です。私はミラノでカリッシミ協会マヌサルディ資料館、これは銀行員であった故ジャンマルコ・マヌサルディ氏の先見の明と彼の情熱により、ヨーロッパ中の図書館からカリッシミの楽譜またはそれと推定される資料が集められた、この作曲家に関しての世界で最も充実した資料室ですが、そこに関わるという名誉に浴しています。今夜演奏される楽譜はそこに所蔵されているものです。
 また私は、バロック音楽への情熱に後押しされて、演奏実践をより深めるためにヨーロッパにやってきた多くの優秀な日本人音楽家たちと、彼らの祖国で、このコンサートを共演することができ、大変幸せです。すでにイタリアで彼らの多くと、一緒に仕事をする喜びを持つことができました。彼らは、人類にとって失うことの出来ない財産であるこの音楽の未来に大きな希望をもたらす、新しい世代を代表する音楽家たちなのです。
ジャンルーカ・カプアーノ

§「オラトリオ」における宗教音楽としての「オラトリオ」
 「オラトリオ」という単語は、1500年以上の長きに渡って用いられてきたオラトリウムというラテン語を基にしたイタリア語であるが、その言葉の歴史の長さ故時代によりその意味するものは、場所から、そこに集まる人々、その音楽、そして一定の形態をもつ音楽様式を指す言葉へと重層的に広がっていった。
 そもそも、キリスト教が公式に認可された紀元4世紀から5世紀にかけて、信者たちは、神へ、そして犠牲となった仲間たちへの祈祷を行う小さな建物のことを「オラトリオ」と呼び習わしていたが、それは、古代アッシリアのアラム語で書かれた聖書外典「ユディトの書」の当時作成されたラテン語訳版から明らかになっている。そして中世末期になると、この「オラトリオ」という言葉は、殉教者を悼み讃える祈祷の場を意味するだけでなく、そこに集まった信者たちのグループである信心会、そしてまたそこで行われる宗教音楽全体をも指すようになっていった。
 「オラトリオ」という一つの言葉で音楽までが意図されるほど、音楽が「オラトリオ(祈祷所)」はじめ宗教活動の核となり得たことは、キリスト教がその活動の初期から多くの聖歌(これらがグレゴリオ1世(590-604)時代に編纂され、後に「グレゴリオ聖歌」として呼ばれるようになる)を用いて礼拝を行い、11世紀までには初期ポリフォニーを通して聖務日課を音楽と共に行うに至っていたことに触れるだけで十分であろう。13世紀、すべての富を慈善のために費やしたアッシジの聖フランチェスコが没すると、彼の後を追うかのように、苦行を経ることで改悛を行おうとする信徒会が各地に次々と設立される。そこでは、礼拝の一環として福音書や旧約聖書を舞台化した演劇を行うとともに、宗教歌ラウダを歌いながら諸行事が進められていた。ラウダと呼ばれたこの単旋律の簡単な音楽における対話構造、これが、音楽的な意味でのオラトリオの源流として今日考えられている。 
 その後、宗教音楽としての「オラトリオ」の成立において、最も影響を与えた者に、フィレンツェ出身のフィリッポ・ネーリ(1515-95)のローマにおける布教活動があげられよう。彼は1552年頃、ローマのサン・ジローラモ・デッラ・カリタ教会の司祭となり、非公式に集会を始めるが、そこで彼は、典礼周期と平行してそれぞれに音楽を割り当て、音楽と共に宗教的修養を図っていた。この集会は、1575年、グレゴリオ3世によって公式に認められるようになるが、それまでにネーリのこの態度は当時のローマ市民はじめイタリア全土から人気を集め、オラトリオ(建物)とオラトリオ(音楽)の概念が、一つの分かちがたいものとして、人々へ認識させる大きなきっかけを作ったのであった。
 ネーリの活躍した時期のローマでは、同時にまた、聖十字架上のキリスト会をはじめとする多くの信心会組織が存在し、ラテン語テキストによる本格的な宗教的ドラマを行うことで、礼拝における音楽の位置を高めていたが、その音楽自体も、イタリアに帰化したオルランド・ラッソ(1530/32?- 1594)に代表されるフランドル人音楽家達、そしてネーリとも同じ信心会を通じて密接なつながりを持っていたローマ教皇庁作曲家パレストリーナ(1525/26-94)などイタリア人音楽家によって次々と新しい様式が開発され、「オラトリオ」は常にその新しい試みの披露の場ともなっていった。中でも、前世紀まで隆盛を誇ったポリフォニックなマドリガーレの芸術的遺産をモノフォニックに扱うことで、後にオペラを準備することにも繋がるモノディー様式を生み出したことは音楽史上極めて重要な出来事であり、その試みは、1600年にネーリのオラトリオ(祈祷所)で上演された、エミーリオ・デ・カヴァリエーリ作曲の《魂と肉体の劇》において結実することとなった。これらの過程において、オラトリオにおける礼拝に欠かせない劇的な構造、つまり語り手と物語の登場人物による対話形式が、このような音楽形式を作り出すにあたり重要な役割を担っていたことは明らかである。 
 このような過程を経て、「オラトリオ」とよばれる語は、宗教的音楽劇のジャンル全体をも規定し、表象するようになっていく。17世紀後半以降、18世紀にかけては、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアそれぞれの国で「オラトリオ」は独自にその道を歩み始めるが、基本的にその姿は、ラテン語、或いはイタリア語による宗教的歌詞を持ち、独唱、重唱、合唱、管弦楽のための総合的かつ大規模な作品であり、所作、舞台、衣装、演技を伴わず上演され、さらに語り手が物語を進行させるものとして特徴付けられる。
 しかしながら、実際には各地のオラトリオ/教会において執り行われた多くの宗教行事に欠かさず作曲されたモテット、カンタータ、宗教オペラ、そして受難曲という他の宗教曲とオラトリオとの間に違いを明確にすることは、上記の区分だけでは不十分であり、様式研究を行う研究者間でその定義に関する見解は一部異なっている。
 
§ジャコモ・カリッシミ
 簡単にオラトリオの歴史を振り返ってみたが、17世紀から18世紀にかけて各国において隆盛したオラトリオの礎を築いたと考えられているのが、本年で生誕400周年を迎えるジャコモ・カリッシミであった。
 彼は1605年教皇領マリーノで生まれ、1674年ローマで没した作曲家で、最初アッシジ、続いて若干24歳のときにはすでにローマの聖アポリナリス教会における作曲家兼聖歌隊指揮者として採用され、その後長らく同施設において活躍した音楽家である。彼は、そのキャリアからも明らかなように、とりわけ聖書、宗教的寓話に基づく宗教曲の分野で主に活躍し、数多くのモテット、カンタータを作曲した。中でもオラトリオは彼の主要な作曲ジャンルであり、今日ニューグローブ音楽事典(2001)によると16作(うち5作は真作かどうか疑わしい)、カリッシミ研究者L.ビアンキ(Bianchi, 1969/ 日本語改定版, 2005)によると30作がその成果としてあげられている。なお、両者における作品数の異なりは、先に触れたように、オラトリオ形式そのものに関する視点の
相違のみならず、彼の確実な自筆譜が今日現存しないため、真作かどうかの判断の余地が未だ残されているためである。
 彼のこれらのオラトリオは、イストリクスと呼ばれる語り手により物語が進められることによって特徴付けられる。この語り手は、しかし、バッハの受難曲における福音史家のように一人の歌手によって担当されるものではなく、何人かの歌手、ならびに合唱に交互に割り当てられるもので、したがって音楽上の興味も、瞑想と訓戒と語りの要素として筋の進展を叙情的に描写する語り手としての合唱の部分、ならびにその語り手と独唱の対比(レチタティーヴォとアリア的な部分は、移行部を介さず交互に現れる)の部分にある。また、独唱におけるモノディーの部分は、専ら言葉のアクセントに従った旋律と、単純な和声と正確なリズムによって歌詞が際立つよう意図されているが、さらにカリッシミはここで単語の意味を音楽で表現するために、モンテヴェルディのレチタティーヴォ形式のような不協和音や跳躍進行、装飾音などを使用している。
 このような、純粋に音楽のみで劇を作り上げる彼のオラトリオは、もはや1600年にネーリのオラトリオで上演されたカヴァリエーリの《魂と肉体の劇》に代表されるような、登場人物が次々と舞台に登場し、モノディー風に舞台上でドラマを演じる聖人劇(サクラ・ラップレゼンタツィオーネ)の「オラトリオ」のあり方とは大きく異なったものとなっている。この“新しさ”は、当時反宗教改革の精神にのっとった新しい宗教音楽を求めていたイエズス会の意向にそぐうものとして教会から高く評価されたばかりか、視覚に頼らずとも十全に劇における感情を表現する手法、とりわけ後のドイツ・バロック音楽においてフィグーレンレーレと呼ばれ研究されてゆく音楽上のレトリックなどの技法は、各国の音楽家たちを欧州中から引きつけることになる。それら弟子には、後にバッハやヘンデル、テレマンに影響を与えることとなるアゴスティーノ・ステッファーニ(1654-1728)、18世紀のナポリ楽派の隆盛に大きく貢献したアレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725)、それからドイツ・オラトリオの祖といわれるシュッツの弟子であったクリストフ・ベルンハルト(1628-1692)、さらには、フランスにおいて新たにオラトリオの伝統を打ち立てることになるマルカントワーヌ・シャルパンティエ(1643?-1704)らがいたが、このようにしてカリッシミの劇音楽の技法は、“汎オラトリオ”として各国のオラトリオ、さらにはオペラの源流となっていくのであった。

§今夜のコンサート
 カリッシミの生誕400年を記念する本コンサートでは、旧約聖書に題材を求めたラテン語オラトリオから、《エフテ》、《ヨナ》の二作を中心に取り上げる。
 両作品は、カリッシミの真骨頂となる簡潔かつ劇的な作曲手法が存分に生かされたもので、彼の代表作として知られている。作品の概要は後の項を参照されたいが、両作品ともその物語の規模に比べ、演奏時間は後世のオラトリオのように長大なものではなく、劇中の各エピソードはむしろ足早に経過することとなる。しかしそれは決して空疎なものとはならず、カリッシミによってそれぞれの場面の本質的な情感が豊かに音楽化され、まさに宗教的エピソードに相応しい、鳴り響く聖書とも言える仕上りになっている。次々と現れるエピソードを“耳で観る”にあたって、皆様には、平安絵巻物、あるいは教会の側廊に嵌め込まれたステンドグラスに描かれた一連の教訓的物語図を見るときに必要となる態度 ——<ゆっくり歩きながら、次や後ろの絵も視野に入れつつそれぞれの絵を順にたどって見る>—— を思い出しながら、音楽のもつ力によって喚起される物語の情景を胸のうちで少しでも辿って頂くことができれば本演奏会は成功である。

§《エフタ》
 《エフタ》は、旧約聖書のなかでも、とりわけ紀元前13-11世紀半ばまでの事柄を描いた、判事の書、通称《士師記》にその題材を求めたオラトリオである。作曲年代について詳しいことは分かっていないが、A.キルヒャーの1650年刊行《Musurgia universalis》において本作品が言及されていることから、それ以前に完成されていた ものと推定されよう。
 タイトルとなるエフタは、イスラエルの勇士であり、アンモン人たちに対して戦争を仕掛けようとしている。いざ出立に際し、彼は神に対して、もし勝利を治めれば自分の家から出迎えるものが誰であってもそれを神への供物とすると願をかけるのであった。二十の町を襲った戦はエフテ側の勝利に終わり、華々しく祖国に帰還すると、まず彼を真っ先に迎えた者はその意に反して、一人娘とその連れであった。神への誓いと娘への情の狭間にエフテの気持ちは揺れ、「お前が私を打ちのめし、お前が私を苦しめるものになるとは」と独白するも、その訳を聞いた娘は毅然と神への犠牲となることを決意する。しかしすぐに彼女は、当時の女性の夢であった、結婚し母となることがもはや叶わないことを悔やみ、その不幸を嘆くため2ヶ月の巡礼の許しを父に請うと、連れの女たちと山々を彷徨う。期限となり帰って来た娘は、皆に惜しまれながらその首を差し出す。
 この神への義務と、肉親の情の相克を描く劇の基本構造は、アブラハムと息子イサクの物語、それからモーツァルトも《イドメネオ》(1781)として作曲した、クレタ王イドメネオの物語(トロイ戦争から帰還するイドメネオは、途中嵐に遭遇し、最初に会った人を犠牲にすると海神ネプチューンに願をかけ助かるが、彼が海岸に着いて最初に出会ったのは自分の息子であった。)と極めて似通っている。しかし、これら二つの物語が最終的に神の介入によりハッピーエンドで終わるのに対し、本オラトリオにおいては、娘は犠牲を免れることなくあくまで悲劇としてその幕を閉じることとなる。
 本作品の構成は、語り手たちと、主役陣エフタとその娘の独唱が交互に表れることでその物語の進行が行われ、楽曲は全部で25節に分かれている。しかし作品は、出陣から勇ましく帰還するまでの場面(1-12節)、そしてその後に訪れる嘆きの部分(13-25節)それぞれにクライマックスがおかれ、大きく二部に分けて提示されることが意図されているといえよう。
 前半部分の最終節における、勝利した父を喜んで迎える娘の歌は、もっと華やかに喜びに満ちたものであっても良いのに、時折みせる不安定な和声が後半で起きる悲劇を予兆させている。また後半部分、エフテが娘を見て嘆く場面においては、おそらく本作品が書かれた同じ時期、モンテヴェルディが《ポッペアの戴冠》(1642) において元老セネカが自殺を図る場面で用いた半音進行と同種の進行を置くことで、音楽上の“悲しみ”を表している。その後、娘が巡礼に赴き、自分の処女を嘆く一節においては、各楽句の後に、他声部がエコーとしてそれを模倣するが、山中での巡礼における嘆きが山々にこだましている様を具象しているといえよう。合唱による最終場面においては、各声部をポリフォニックに配置することで、寄せては引く波のように「彼女を哀れみたまえLamentamini」という歌詞が繰り返され、作品をドラマティックに締めくくっている。

§《ヨナ》
 旧約聖書における最後の「預言者」の出現を題材にしたラテン語オラトリオで、《エフタ》と同じく、1650年以前に作曲されたものであると考えられている。
 あらすじは、アッシリアの首都ニネベが苦境にたったため、神はヨナにニネベに行き伝道を行うよう直接彼に語りかける。ヨナは、しかし、そのバスで歌われる神の声があまりに恐ろしく感じたため、そこから逃れようとして船に乗り込む。ヨナを乗せた船が航海をはじめると、すぐに暴風雨が起き、乗組員たちは神への祈りを捧げ始める。船中で眠っていたヨナは目を覚まし、その原因が自分であることを告白し、荒海に身を投じる。神はそこで鯨を差し遣し、ヨナを飲み込ませ、彼を腹の中に収めてしまう(ヨナ は3日間鯨の腹の中にいるが、これはイエスの受難による死と3日後の復活を暗示するものである)。鯨の腹の中でヨナは失意のうちに懺悔を行い、神の正しさを全面的に認め、哀れみを請う。3回目の祈りの後、神は彼を赦し、預言者を地上に戻すよう鯨に命令する。するとニネベ人たちは、それまでの罪を懺悔し、最終的に「我らは改宗しましたconvertemur」と合唱し、神への慈悲に感謝しながら曲を終える。
 作品では、嵐で荒れ狂う空と海と、それに恐れ戦く水夫たちの祈りの連続する描写において、2部の合唱の対位法的手法が用いられることで厳しい緊張感が表現されている点、そしてヨナの懺悔における深い苦しみから、赦しを得て、カタルシスとして表れる安息感の対比の素晴らしさが注目すべき箇所となろう(この合唱は音楽史上初めて現れる「嵐」の音楽的描写である)。また、ヨナが「怒りを静め給え、神よ、赦し給へ、神よPlacare Domine, Ignosce Domine」と預言者の言葉そのままに神へ呼びかけを行う場面に、カリッシミは短3度の印象的な跳躍音型を置いてこの言葉を印象付けるが、さらにその呼びかけを3度繰り返すことによりヨナは最終的な赦しを得ることになる。この部分では、父と子と精霊の三位一体、つまり完全を表す3という数字が音楽上のレトリックとして扱われ、作品構造を規定していると考えられるのである。 

山田高誌(音楽学・日本学術振興会特別研究員、イタリア国立バーリ音楽院音楽研究所客員研究員)

§カリッシミの新たなる真作?
 このモテットの歌詞は、アッシジの聖フランチェスコ大聖堂の上部聖堂にあるジョットのフレスコ画「火の車の幻視」の情景である。旧約聖書の列王記下2:11−12に、基づき、またキリスト変容の場面のイメージを借りて預言者エリアの姿にフランチェスコを重ね、彼を第二のエリアとする当時のフランシスカンの神学が下敷になっている。
 フランチェスコは帰天するとまもなく聖人に列せられ、彼の祝日を祝うための聖務日課が1230年から35年にかけてフランチェスコ会士の音楽家,スピラのユリアヌスによって作られた。O stuporはその聖務日課の一部で、典礼的には第一晩課マニフィカートのアンティフォナである。フランチェスコが洗礼を受けたアッシジの聖ルフィーノ大聖堂の楽長を務めたカリッシミは当然フランチェスコ会の典礼を身近に経験しながら仕事をしたであろう。しかしカリッシミはこれを典礼の脈絡から離れて<2声と2本のヴァイオリンによるアッシジの聖フランチェスコを讃えるモテットMotetto in onore di S.Francesco d’Assisi a 2 canti e 2 violini ‘O stupor et gaudium’>として作曲している。
 この作品のオリジナル楽譜はアッシジ大聖堂に付属するコンベンツァル聖フランチェスコ修道院内の図書館であるアッシジ市立図書館の手稿譜部門に[Anonimo 2200]として作者不詳のまま登録されているモテットである。同図書館はこれをカリッシミの真作とし、またカリッシミの自筆楽譜であるとしている。カリッシミの自筆がアッシジのどこかにあるはずだと、期待を持って探していた同修道院のアルビーノ・ヴァロッティ神父がこれをカリッシミの物であると同定し、1967年8月4日付けのL’Osservator Romana紙に発見記事が掲載された。しかし、本日の指揮者カプアーノ氏をはじめとするカリッシミの研究者の多くはこの自筆楽譜の真偽について、また作品のオーセンティシティについても未解決の問題を残しているという立場である。
しかしながら、2001年版のNew Grove音楽辞典には、この作品は作品表のモテットの項に加えられている。ただし、New Groveの記載では[O stupor I-Ad]となっているが、この所蔵情報は間違いである。Adはアッシジ・ドゥオーモ(聖ルフィーノ)を指すが、正しくはAf、もしくはAcである。
 2000年の春、アッシジの図書館を訪れたとき、同行した小澤路華さんと共にこの楽譜を見た。帰国後、これがフランシスコへの嘆願の祈りであることに気づき、小澤さんに損傷の激しいオリジナル楽譜を見やすい現代譜に転写してもらった。これに基づき、いつか日本初演を、という願いが思いもかけず小池さんとカプアーノ氏の尽力でここに叶ったことを心から感謝している。
杉本ゆり (音楽学・グレゴリオの家勤務)
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by Carissimi | 2005-07-24 10:24 | カリッシミ生誕400周年
いよいよです!
 いよいよ、カリッシミ生誕400周年記念コンサートの山場「オラトリオ編」が明日となりました。
 指揮のジャンルーカ・カプアーノ氏も日本の慣れない蒸し暑さの中、初日からかなり集中力の高いエネルギッシュなリハーサルが続いています。彼のリードの下、メンバー全員が改めてカリッシミの音楽の素晴らしさに酔いしれています。ぜひ、明日この感動を皆様と共有したいものです!
 
 さて、今日はお知らせしたい事がふたつあります。
 まず、急ですが、前もってお知らせしていたプログラムに1曲追加する事になりました。実は、5日に行った「カンタータ編」に聖グレゴリオの家にお勤めの音楽学者杉本ゆりさんがいらしてくださり、近年カリッシミの作品と認められて、彼女がアッシジの図書館から楽譜を持ち帰ったモテットをぜひ日本初演(世界今世紀初演?)して欲しい、とのリクエストをいただきました。早速楽譜を見させていただいたところ、今回のプログラムの4曲とはまた違うキャラクターの曲で大変興味深い物でしたので、カプアーノ氏とも検討の結果、明日演奏する事にしました。これは、アッシジ大聖堂に付属する聖フランチェスコ修道院の図書館に長年「作者不明」として眠っていた楽譜で、同修道院のヴァロッティ神父によってカリッシミの作品と同定され、1967年のイタリアの新聞に発見記事が掲載されました。ニューグローヴ音楽事典には、2001年に初めてカリッシミの作品表に加えられています。このように、知られていないカリッシミの作品が、まだまだたくさんあるのです。カリッシミの新たなる真作、ぜひお楽しみ下さい。

 そして、もうひとつは今回の指揮者カプアーノ氏のオルガンコンサートです。彼は本来ミラノのサン・シンプリチアーノ教会のオルガニストで、その実力には大変な定評があります。今回、コンサートをふたつ行いますが、明後日のカザルスホールのコンサートでは、そのシンプリチアーノ教会と同じ型のアーレント・アルガンを使いますので、彼の普段の持ち味がたっぷりお楽しみいただけると思います。
 また、8月3日の聖路加国際病院礼拝堂は、日本では珍しいヨーロッパ調の内装なので、日本にいながらまるでヨーロッパの教会でオルガンを聴いているような雰囲気です。
 ぜひぜひこの機会に彼の「イタリアン」なオルガンの響きを聴きにいらして下さい!

*「アーレントオルガン」ランチタイムコンサート
7月23日(土)12:15 - 12:50 日本大学カザルスホール
プログラム:G.ベーム「天にいますわれらの父よ」、G.B.ペルゴレージ「ソナタ へ長調」、G.S.バッハ「天にいますわれらの父よ」BWV682、D.ブクステフーデ「プレルディウム ト短調」BuxWV148
入場料:100円以上
問い合わせ:日本大学カザルスホール 03-3294-1229

*オルガンコンサート「夕べの祈り」
8月3日(水)18:00 コンサート・18:30 夕べの祈り 聖路加国際病院礼拝堂
プログラム:G.フレスコバルディ「トッカータ集第2集より第5番」、J.S.バッハ「天にいますわれらの父よ」BWV682、M.E.ボッシ「祈り・恩恵の告白」 Op.72、B.パスクィーニ「フォリアによるパルティータ」、M.E.ボッシ「厳粛な時」Op.132-4、作者不明(17世紀)「チャッコーナ」
問い合わせ:聖路加国際病院礼拝堂オルガン委員会 fax 03-5550-2416
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by carissimi | 2005-07-21 10:13 | カリッシミ生誕400周年
「カンタータ編」終了
 昨日、無事「カンタータ編」が終了しました。お忙しい中、ご来場くださった皆様、ありがとうございました。

 本番直前までローマの図書館に注文していた楽譜が届かなかったり、イタリアから日本の共演者に送った楽譜が着かなかったり、急な共演者の変更があったりと、ハプニングが続出し、「これは前途多難か。。。」と思われましたが、共演者のご協力の元、理リハーサルは順調に進みました。第1回目のヴェネツィアの作品とは違い、今回の筆写譜には写譜者の書き間違いか、作曲家の意図とする物なのか疑問に思われる音や記号があり、まるで謎解きをしているようでしたが、これらの楽譜がどんどん音楽になっていくのは本当に大きな喜びでした。
 この時代の作品は一口に「カンタータ」と言っても、本当に様々な様式があり、しかも技術的にも大変難しい曲が多く、歌い手も歌い甲斐がありましたし、お客様も聴き応えがあったのではないかと思います。
 ぜひこのブログにもご意見・ご感想をお寄せ下さい。
 また、当日のプログラムと解説を掲載いたしますので、ご覧下さい。
 なお、当日はアンコールとして、2年前のラ・カンタテリーア第1回コンサートにご出演いただき、先月ご病気のため34歳という若さでお亡くなりになったリコーダー奏者の篠原理華さんを偲んで、ジャコモ・カリッシミ作曲の<Rimanti in pace 安らかに眠れ>を演奏いたしました。

 では、22日の「オラトリオ編」もぜひお楽しみに!皆様のご来場をお待ちしております。

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by carissimi | 2005-07-06 23:32 | カリッシミ生誕400周年
カンタータ編プログラム
ラ・カンタテリーア/イタリア・カンタータ・シリーズ第2回
ジャコモ・カリッシミ生誕400年記念
17世紀前半ローマのカンタータ
(2005.7.5.同仁教会)

第1部
パオロ・クァリアーティ
1) <Io vo cantar mai sempre 私はいつまでも歌いたい>

ドメニコ・マッツォッキ
2) <Spogle, che fosti un tempo カルタゴよ、お前は優しく愛しかった>

ドメニコ・クリヴェッラーティ
3) <Amore il mio tormento 愛の神よ、戦に駆り立て平穏を与えぬものよ>

ヴィルジーリオ・マッツォッキ
4) <Sdegno campione audace 怒りよ、戦いの裁きを下す勇敢な勝利者よ>

ヨハン・ヒエローニムス・カプスベルガー
5) <Passacaglia パッサカリア> テオルボ・ソロ

オラーツィオ・ミーキ
6) <Su l'oriente 東の空に朝焼けは微笑み>

ルイージ・ロッシ
7) <Fanciulla son io 私は愛を知らない乙女>
8) <Tutto cinto di ferro 鎧と武器を身にまとった>

♪♪♪  休憩(15分)♪♪♪

第2部
ジャコモ・カリッシミ
9) <Vittoria, Vittoria mio core 勝利だ、我が心よ>
10) <Piangete ohime', piangete おお、泣きなさい>
11) <Nella piu' verde eta' 青春時代の最も活き活きとした頃には>
12) <A pie' d'un vero ある日緑なす月桂樹の元で>

アンコール
ジャコモ・カリッシミ<Rimanti in pace 安らかに眠れ>

≪ご挨拶≫

 本日はカンタテリーア(「カンタータ屋」という意の造語)にご来店(場)いただき、誠にありがとうございます。2003年1月の第1回目コンサート以来、しばらくぶりの開店です。
 前回は、カンタータという分野が誕生した17世紀初期のヴェネツィアのカンタータを演奏いたしました。今年は、ローマで活躍したジャコモ・カリッシミの生誕400年にあたることから、17世紀前半のローマのカンタータを集め、カリッシミまでの流れを追っていきたいと思います。
 当時ローマでは、高位聖職者の宮殿に多くの音楽家が出入りし、競って音楽会が催されていました。また、多くの優秀な歌手が存在し、そのおかげで室内声楽曲は大きく発展しました。
 今年は奇しくもローマ法王ヨハネ・パオロ2世が没し、新法王ベネデット16世が誕生し、世界中がローマに注目した年でもありました。カトリックが国教でない私たち日本人が、現在とは大きく違うであろうその当時の法王や周辺の聖職者の生活を伺い知ることは容易な事ではありませんが、バロック時代のローマで栄えた今回のローマのカンタータを通して、少しでもその当時のローマの音楽界を垣間見ていただければ幸いです。
                             小池 智子・櫻田 亮


≪17世紀前半のローマのカンタータ≫

 17世紀初期にヴェネツィアで誕生したカンタータが、17世紀を通じてその発展の地となったのはローマであった。その背景には、枢機卿などの高位聖職者や亡命王女などの音楽や芸術の後援者とローマの優秀な歌手達の存在があった。
 17世紀初期のローマは、作曲家や演奏者を援助する力と富を持った高位聖職者の館で、オペラや室内楽が発展していた。自ら作詩作曲、またオペラの台本を手がける聖職者もいた。その中でも代表的な存在は、1623年にウルバヌス8世を輩出したバルベリーニ家である。ウルバヌス8世となったマッフェオ・バリベリーニ(1568-1644/在位1623-44)は、二人の甥フランチェスコ(1597-1679)とアントーニオ(1607-71)を枢機卿に任じ、熱狂的音楽の後援者であった彼らの館はローマの文化の中心となった。マッフェオ自身も詩を作り、それらにD.マッツォッキやJ.H.カプスベルガーなどが曲を付けた。またフランチェスコは、1632 年の謝肉祭に宮殿内にオペラ劇場を作るなど、ローマでのオペラの土台を作った。ウルベヌス8世の死後、バリベリーニ家の没落後もコロンナ、パシフィーリ、オットボーニなどの枢機卿やルスポーリ公爵、またローマに亡命したスェーデンのクリスティーナ女王(1626-89)などのサロンにおいて、聖俗双方の流行分野すべての音楽が競って演奏された。
 特に、1654年に王位を放棄したクリスティーナ女王は1655年から1689年に亡くなるまでローマに住み、彼女のサロンはローマの芸術の中核をなしていた。それまで教皇の影響下にある枢機卿達の元にあったローマの音楽生活は、4人の教皇の死がローマに混乱をもたらすような時も彼女のおかげでほとんど影響を受けなかった。彼女のサロンでは、G.カリッシミ(1605-1674)、A.ストラデッラ(1639-82)、A.コレッリ(1653-1713)など当時の主だった作曲家達が活動しており、若き日のA.スカルラッティ(1660-1725)は彼女の宮廷楽長を務めた。
 また、当時教皇礼拝堂や市内の教会の聖歌隊には、厳しい歌唱訓練によって優れた歌手が多く存在し、彼らは聖と俗の区別なく活動していた。その訓練については、A.A.ボンテンピの著書「音楽の歴史(1695)」に次のように記されている。『ローマの学校は、経験を積むために難しく厄介な歌を歌うこと、トリルの
練習、装飾的なパッセージの実習、歌詞の研究、声楽実習と歌唱法の復習を、生徒たちに午前中各1時間ずつ課した。これらの課程はウェストにも額にもまつ毛にも口にも見苦しい動きが少しでも出ないように鏡の前で、教師の監督下で行われた。午後は、理論を半時間、定旋律に基づいて対位旋律を作ることを半時間、記譜された対位法書法を1時間、さらに歌詞研究に再度1時間を費やし、残りの時間は自分の好みでチェンバロの練習や、聖歌やモテット、歌曲などの声楽曲の作曲に充てられた。これらは外出しない生徒達の通常の訓練であった。外出日にはしばしばモンテ・マリオ方面のポルタ・アンジェリカ(天使の門)へ歌いに行き、そこでエコーを聴き自分の声を研究した。また、教会の礼拝で歌い、ウルバヌス8世の統治の下、活躍している多くの歌手の歌唱法を観察した。そして、帰校後学外学習の成果について、教師とともに議論を交わした。それらの訓練は、ローマにおいてヴァチカンの聖ピエトロ大聖堂の楽長であり高名な教師であるヴィルジーリオ・マッツォッキによって生み出され、この技術に新しい光を照らした。』
 このような状況の中で作曲された室内カンタータは広く普及し、ローマ以外の作曲家の手本となった。しかし、ヴェネツィアのカンタータの多くが出版譜として残されている一方、ローマの作品には日付が入っていないうえ、別人の手による筆写譜が複数残されている事が多いために、作曲年代や作曲家本人の手稿譜を正確に調べることは大変難しい。
 17世紀中頃までのカンタータは、一定の形式を表すものではなかった。主に小規模なアリア(歌唱)からなる「アリエッタ・コルタ(短い小アリア)」と語りを主とするレチタティーヴォ(叙唱)と様々な様式のアリアが交互に現れる「アリア・ディ・ピゥ・パルティ(多部分から成るアリア)」の二つのタイプに分けられる。「アリエッタ・コルタ」は初期のカンタータでは多く見られ、同じバスと歌の旋律が1番2番と繰り返される有節形式と同じバスに歌唱部分が自由に変化する変奏有節形式(第3、7曲)が大部分を占める。また、チャッコーナ(第4曲に一部使用)など一定のバス進行を持つ作品や、後の多くのカンタータのアリアに現れる「ダ・カーポ・アリア(ABA形式)」(第9曲)など、様々な音楽形式を含んでいる。一方の「アリア・ディ・ピゥ・パルティ」は、小品(第1、4、6、10曲)からカッチーニやモンテヴェルディの「レチタール・カンタンド」の流れを組む長いレチタティーヴォと短いアリアを含む大規模な作品(第8、11曲)まであり、時代が進むにつれレチタティーヴォとアリアの重要性が変化していく。叙情的もしくはいくらか劇的な詩を持ったレチタティーヴォとアリアの両方で構成される「アリア・ディ・ピゥ・パルティ」は、17世紀中頃のカンタータの最も一般的なタイプとナリ、バロック後期になるとスカルラッティやヴィヴァルディのカンタータに見られるように、短いレチタティーヴォとアリア(ダ・カーポ)が増え、このような様式の作品が以後「カンタータ」と呼ばれるようになる。
 

≪ジャコモ・カリッシミの生涯とそのカンタータ≫

 1605年ローマ近郊で職人の末子として生まれたカリッシミは、ティヴォーリ大聖堂の合唱団員、同聖堂のオルガニスト、アッシジの聖ルフィーノ大聖堂の楽長などを務めた後、1629年にローマにある世界で最も重要なイエズス会修道士の学校のひとつ、コッレージョ・ジェルマニコの楽長に任命され、生涯この地位に留まる。ヴェネツィアの聖マルコ大聖堂でモンテヴェルディの後継者や、オランダのハプスブルグ家の宮廷楽長また神聖ローマ皇帝に仕える話などを断っていることからも、彼がこの学校で学生の音楽教育や学校付属の聖アッポリナーレ教会での音楽活動などに満足していたと思われる。また1656年にはクリスティーナ女王から宮廷楽長の称号を授けられた。
 カリッシミは生前からカンタータ作曲家としての名声を欲しいままにし、その発展に大きく貢献した。それは彼の最も重要な先達であるルイージ・ロッシに直接的な影響を受け、145曲のカンタータには、ロッシの作品同様「カンタータ」という名の下、主に4つの形式が隠されている。最も一般的なタイプは、レチタティーヴォとアリアが自由に継起する「アリア・ディ・ピゥ・パルティ」(第11、12曲)であり、アリアの部分はダ・カーポ形式やロンド形式、有節形式をとることがある。他の3つのタイプは、アリア
(第9曲)、有節変奏、アリオーゾ(第10曲前半)である。それらの書法は、彼の宗教曲と同様に単純でシラビックであり、主として全音階的な音程と分散された三和音であるが、時折歌詞が霊感を与えるところでは、装飾、跳躍などヴィルトゥオーゾ的技巧を用い、特に嘆きや苦しみの表現には特別な和声的効果を有効に使用した。当時賞賛されたこうした技巧や効果は、当時の宮廷や豪邸の舞台で演奏された音楽の華麗さと哀切さを彷彿とさせるようである。
 通奏低音だけを伴い様々な形式を示すカリッシミの独唱カンタータは、頂点を極めこのようなカンタータの発展は一段階の終わりを告げた。その後レチタティーヴォとアリアの分割が進み、アリアがダ・カーポ形式を取る傾向が強まっていった。
 

≪曲目解説≫
 
1) パオロ・クァリアーティ (1555年頃ヴェネツィア郊外キオッジャ - 1628年ローマ)
<Io vo cantar mai sempre 私はいつまでも歌っていたい>
キオッジャの貴族出身であるクァリアーティは、1574年より没するまでローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会のオルガニストを務めた他、枢機卿ファルネーゼやルドヴィージ家に仕え、枢機卿アレッサンドロ・ルドヴィージがローマ教皇グレゴリウス15世に就任した1521年には、最高記録官件教皇私室長官に任命されている。この曲が収められている作品集《調和のとれた宇宙》は、1623年にルドヴィージ家のニコロ・ルドヴィージと作曲家ジェズアルドの娘イザベッラの婚礼の際に作曲され、いくつかのヴァイオリン付き含む多くの独唱曲と二重唱曲が収められている。この作品と他の数曲は1608年の<4声のマドリガーレ>から編曲された。彼がキオッジャにいた頃、ヴェネツィアの書法から影響を受けたと思われるヴァイオリン付きのコンチェルタート形式は、一環して主に全音階的明瞭な和音を用い、簡素かつ優雅である。この作品は、「カンタータ」とは題されていないが、このように3拍子のアリエッタと4拍子のレチタティーヴォが交互に現れる形は、当時のカンタータの中に多く見られる。

2) ドメニコ・マッツォッキ (チヴィタ・カステッラーナ - 1592年受洗 - 1665年ローマ)
<Spoglie, che fosti un tempo カルタゴよ、お前はかつて優しく愛しかった>
故郷の神学校で弟ヴィルジーリオと共に学び、1619年には司祭に任命されたが、1621年に枢機卿イッポーリト・アルドブランティーニに音楽家として仕え始める。この作品が収められる《宗教的・論理的な音楽1640》は、枢機卿の姪オリンピア・アルドブランディーニ・ボルゲーゼに献呈された。また、枢機卿A.バルベリーニの叔父教皇ウルバヌス8世は後援者であり、聖職者として同僚でもあった。彼の現存する唯一のオペラ《アドネスの鎖》は、1626年にバルベリーニ劇場で上演された。彼のこの最後の室内声楽曲集には、1声から4声のレチタティーヴォ、有節変奏など多様な作品が収められている。ローマの詩人ウェルギリウスの叙事詩《アエネイス》から枢機卿ロベルト・ウバルディーノが作詩しダイドーの嘆きを描いたこの作品は、4節から成る「ロマネスカ」として書かれている。

3) ドメニコ・クリヴェッラーティ (ヴィテルボ生1628年頃活躍)
<Amore il mio tormento 愛の神よ、戦に駆り立て平穏を与えぬものよ>
ヴィテルボに住むアマチュアの作曲家であったと思われ、本作品が収められている1声から3声と通奏低音のための《様々なカンタータ集1628》によってのみ知られる。収められている21曲中、1620年代のカンタータと類似する曲は、この作品のようなマドリガーレ風で変奏有節形式の2曲のみで、ほとんどが単純な有節形式の作品である。

4) ヴィルジーリオ・マッツォッキ (チヴィタ・カステッラーナ生 - 1597年受洗 - 1646年チヴィタ・カステッラーナ)
<Sdegno campione audace 怒りよ、戦いの裁きを下す勇敢な勝利者よ>
ドメニコ・マッツォッキの弟で、ローマの複数の教会の楽長を務めた後、1629年から没するまで聖ピエトロ教会のジュリア礼拝堂の楽長を務めた。聖歌隊員に対して厳しい音楽訓練を課し、聖歌隊のレベルを上げた優秀な教師でもあった。レチタティーヴォとチャッコーナが交互に現れるこの作品は、現在イタリア国内の図書館に複数の筆写譜が残っている事からも当時広く歌われたものと思われる。ちなみに本作品の作詞をしたジュリオ・ロスピリオージ(1600-69)は、聖職者であり1667年にはクレメンス9世として教皇に就いた人物であったが、バルベリーニ家のオペラの台本作家としても活躍し、D.マッツォッキやL.ロッシらがそれらに作曲した。

6) オラーツィオ・ミーキ (1594年か95年カゼルタ近郊アリーフェ - 1641年ローマ)  
<Su lユoriente 東の空に朝焼けは微笑み>
ハープ奏者としても名高く「オラーツィオ・デル・アルパ(ハープの)」とも呼ばれた。枢機卿モンタルトや枢機卿マウリーツィに仕え、ベルナルディーノ・スパーダ、A.バルベリーニなどの宮廷で活躍した。約60曲現存する彼の作品の多くは教会カンタータであるが、本作品のように小品ながらアリアとレチタティーヴォの部分を含む様式で書かれた室内カンタータは、L.ロッシや他の後輩達に影響を与えた。

ルイージ・ロッシ (1597年頃トッレ・マッジョーレ - 1653年ローマ)
7)<Fancuilla son io 私は愛を知らない乙女>
8)<Tutto cinto di ferro 鎧と武器を身にまとった(Lo sdegno smargiasso おおげさな軽蔑)>
ナポリで音楽の勉強をした後ローマに移り、サン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会のオルガニストを生涯に渡って務めた。また、ボルゲーゼ家に仕えた後、枢機卿A.バルベリーニをパトロンとした。彼はフランスでも活動したり、彼の作品のいくつかはパリやロッテルダムで出版されるなど、彼の作品はイタリア以外の国に影響を与えた。彼は室内カンタータではローマ屈指の作曲家であり、その筆写譜は他の作曲家のそれより多く、約300曲残されている。それらの多くは<私は愛を知らない乙女>のような明快な形式の「アリエッタ・コルタ」で、この作品はそれぞれAとBの部分が変奏する形で書かれている。このようなタイプの変奏有節形式は、カンタータとしてロッシによって耕された。
一方、「アリエ・ディ・ピゥ・パルティ」である<鎧と武器を身にまとった>には、初期の「レチタール・カンタンド」を思わせる長いレチタティーヴォと器楽の小さいリトルネッロを含んだアリオーゾと最終部にラメント音型のテトラコルド(下降形の4音音階)のアリアが含まれる。「アリエ・ディ・ピゥ・パルティ」は彼の作品の中で5分の1を占めるにすぎないが、後のカンタータの最も一般的なタイプとなる。

ジャコモ・カリッシミ(1605年ローマ近郊マリーニ生 - 1674年1月12日ローマ没)            
9) <Vittoria, Vittoria mio core 勝利だ、我が心よ>
10)<Piangete ohimeユ, piangete おお、泣きなさい>
11)<Nella piuユ verde etaユ 青春時代の最も活き活きとした頃には>
12)<A pieユ dユun vero ある日緑なす月桂樹の元で(I Filosofi 哲学者)>
<勝利だ、我が心よ>は、イタリア古典歌曲集に収められ今世紀まで歌い継がれている作品であるが、現在モデナとボローニャ、ローマ、ナポリの4カ所の図書館に別人の手による筆写譜が残されている。古典歌曲集では2番まで歌詞が付けられているが、モデナとボローニャの楽譜には1番のみ、ナポリの楽譜は3番まで歌詞が書かれている。これらの3つの楽譜がニ長調であるのに対して、残るローマの楽譜はハ長調で書かれているうえ、3ページ中最後のページが筆写されていないため、この楽譜に3番まで歌詞があったのか、あるいはどちらの調が原調なのかを特定するのは難しい。本日は、モデナとボローニャの楽譜に基づいて、ニ長調で1番のみの演奏とする。
<おお、泣きなさい>は、アリアとレチタティーヴォの中間的な性格のアリオーゾと4拍子と3拍子のふたつのアリアを含む3部形式で、2節の歌詞を持つ。
技巧豊かなアリオーゾと3拍子のアリアが交互に現れるリトルネット付きの大規模な作品である<青春時代の最も活き活きとした頃には>の中に、カリッシミは“scherzi 戯れ”“lusingato 虜になった“ “bearla 彼女を崇める”“canto 歌”“stille しずく” “celebrar 讃える”“escalmoユ 叫ぶ”“fior 花”などの言葉にメリスマや跳躍音型を用いたり、 “lacrimar 涙を流す” “morto死ぬ”“tormentarne 苦しめる”などには嘆きや悲しみを表現するために和声的効果を利用している。また、ヴァイオリンが受け持つリトルネッロは、エコー的役割を持っている。なお補作ながら、モテット<O quam pulcra es おお、あなたはなんと美しいことか>にもこの作品とほとんど同じ旋律を使用している。
二人の古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスとデモクリトスが愛について議論を交わす<ある日緑なす月桂樹の元で(哲学者)>では、“piangere 嘆く”“ridere笑う”“fuggi逃げる”“mori死ぬ”“taci黙る”“prega祈る”“tuo desirあなたの願い”“tuo ferita あなたの傷付いた”のような言葉で二つの声部がシーソーのように戯れている。

                                      
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by carissimi | 2005-07-06 22:14 | カリッシミ生誕400周年