ジャコモ・カリッシミ (Giacomo Carissimi )
*生涯

1605年ローマ近郊マリーニ生-74年ローマ没

樽屋の末子として生まれたジャコモ・カリッシミの生涯には不明の点が多い。1623年から25年までにローマのテヴォリ大聖堂の合唱団員、27年まで同大聖堂のオルガニスト、28年から29年にアッシジの聖ルフィーノ大聖堂の楽長などを務めた後、1630年にローマのイエズス会修道士学校のコッレージョ・ジョルマニコ(ドイツ学院)の楽長として呼ばれ、生涯その地位に留まる。
この学校は、16世紀末から反宗教改革の最も重要な拠点のひとつで、その楽長の地位も大変尊敬されていた。彼は、付属する聖アポッリナーレ聖堂で学生や少年聖歌隊の教育や自分の音楽活動に生涯にわたって従事する。 43年にヴェネツィアの聖マルコ大聖堂で、モンテヴェルディの後継者になる話や、その4年後にオランダの統治者ハプスブルグ家のヴィルヘルム大公のブリュッセル宮廷楽長の話など、魅力ある他の職を断っていることから、この学校には満足していたと考えられる。

37年に司祭となり、56年には当時ローマで音楽の重要なパトロンの一人であったスウェーデンのクリスティーナ王女から宮廷楽長の称号を授かった。
楽長や作曲家としてのカリッシミに関する資料はほとんど残っていないが、1650年から60年にかけて至聖十字架オラトリオ会での演奏にカリッシミが頻繁に通っていたという証拠があり、その活動を通じて、オラトリオの祖とされるフィリッポ・ネーリ(1515-95)のオラトリオ会と直接的な関わりを持った。

彼は、大変質素に暮らしており、そのおかげで人に金を貸して利益を得ることが出来た。ローマで職を得た時は資産を持たない職人の子であったが、晩年は裕福に暮らした。


*音楽

現存しているカリッシミ自身による手稿譜は1点しか残されていない。従って、彼の作とされる作品のどれだけが真作であるか判断するのは大変難しい。が、多数残る筆写譜から、彼の作品は、カンタータと呼ばれる世俗的な室内声楽曲とミサ曲やモテット、オラトリオなどの宗教曲に大きく分けられる。

カリッシミは、ルイジ・ロッシに次いでローマにおけるカンタータの発展に大きく貢献した。彼のカンタータの形式は、レチタティーヴォとアリア(ダ・カーポ形式やロンド形式、あるいは有節形式)、アリア、有節変奏、アリオーゾなど多様である。その書法は単純でシラビックであるが、時折歌詞によって特別な和声的効果をもたらした。
やがて、カンタータはこれらのカリッシミの通奏低音のみを伴う自由な形式から、レチタティーヴォとダ・カーポ形式を持つアリアという形式を取り、スカルラッティやストラデッラなどの後継者に受け継がれていく。

カリッシミの作であることが確実なミサ曲は、わずかしか残されていない。それらの多くは、「第7旋法 Missa septimi toni 」のように伝統的な複合唱形式で書かれている。一方「いくつかの歌および5声部と9声部のミサ曲 Missa a quinque et a novem cum selectis quibusdam cantionibus」は、同一リズムの合唱部分とより自由な小編成の部分とが交替する、当時としては新しいミサ・コンチェルタートの形式を取っている。

カリッシミのモテットの大部分は、ミサや晩課などの典礼において歌われただけでなく、修道会の集会やコッレージョ・ジョルマニコなどの私的な宗教音楽として典礼以外の機会にも歌われた。
たいていは少数声部のための作品で、独唱者による演奏に適している。それらのほとんどは、ヴィアダーナやG.F.アネリオなどの作品に見られる短い1楽章で、歌詞の小部分ごとに模倣していく伝統的な模倣技法ではなく、変奏された諸声部やモノディー的な短い独立したフレーズの反復による複雑な構造を持っている。

カリッシミのオラトリオは礼拝堂で聖週間(受難節)の前の時期に演奏するために作曲された。それらに付けられている「オラトリウム Oratorium」あるいは「イストリア Historia」というタイトルは、1640年代に用いられたが、カリッシミ自身がこの用語を用いたかどうかは明らかではない。
それらのテキストは、イタリア語による物とラテン語による物があり、ラテン語オラトリオの多くは主に旧約聖書を題材としている。
彼のオラトリオの大きな特徴は、テスト testo やイストリクス Historicus と呼ばれる語り手の存在である。 これらの歌詞は、何人かの歌手に交互に割り当てられ、時には合唱に割り当てられる。
音楽に関してする特徴は、独唱部分と合唱の対比である。モノディーの部分は言葉のアクセントだけに従い、単語の意味によって感情内容を音楽表現したり、歌詞を際だたせたりするために、モンテヴェルディのレチタティーヴォ形式に見られるように、不協和音や跳躍進行、装飾音などを使用している。
レチタティーヴォとアリア的な部分は、間に移行部を介さず交互に現れる。ここには17世紀後期のオペラに見られるようなレチタティーヴォとアリアの明確な分離はない。
合唱は、瞑想と訓戒と語りの要素として筋の進展を叙情的に描写し、作品を高揚させる役割を持ち、作品設計に不可欠と言える。その単純な和声と正確なリズムを持つホモフォニックな書法によって、歌詞が明確になっている。
彼のオラトリオでは、それまでの例えばカヴァリエーリの代表作「霊と肉の劇」(1600)のように、登場人物が次々舞台に登場して、モノディー風にドラマを演じるという宗教的オペラの性格を持つ物ではなく、目に見える舞台や衣装を持たずに純粋に演奏会形式で、聞き手の想像力に訴えかけながら歌い手はどんな役割も自由に演じた。より音楽という手段で信仰を信者たちに近づきやすいものとし、反宗教改革の精神にのっとった新しい宗教音楽のレパートリーを作りたいと考えていたイエズス会の目的を満足させた。

こうしてオラトリオは確立され、その劇的な表現力はイタリアのみならず各国で独自の発展を見ることになった。
楽長や教師としての活動により、彼の音楽はチェスティ、A.スカルラッティやステッファーニら後生の音楽家によって受け継がれる。また聖アッポリナーレ教会のオルガニストであったG.P.コロンナは楽長カリッシミから学び、後にボローニャでの長年に渡る指導により、ボローニャにおける宗教音楽の発展をもたらした。
フランスでは、カリッシミに1650年代初期に3年間学なんだとされるマルカントワーヌ・シャルパンティエが、その音楽様式を母国に伝えた。カリッシミの死後、ラテン語オラトリオを書いたのはシャルパンティエひとりであった。
イギリスではのちのヘンデルのオラトリオにも影響を与えることになる。
また、ドイツではオラトリオの一変種である、キリストの受難の物語をテキストとする受難曲(パッション)の発達を促すことにもなった。


*代表作品

いくつかの歌および5声部と9声部のミサ曲 Missa a quinque et a novem cum selectis quibusdam cantionibus
ミサ「高き舟端より船綱を解き Sciolto havean dall'alte sponde」
オラトリオ「エフタ Jepfte」「Jonas ヨナ」
     「ソロモンの裁き Judicium Salomonis」
教会コンチェルト集 Sacri concerti musicali
モテット「主に向かって歌え Cantate Domino」
    「エレミアの哀歌が始まる Incipit Lamentatio Jeremiae」
カンタータ「安んじたまえ、我が心 Consolati, cor mio」
     「マリア・ディ・スコーツィアの嘆き Il Lamento di Maria di Scozia」                                             
     「おお、今はただ泣きたまえ Piangete, ohime' piangete」
     「私の命を奪っておくれ Toglietemi la vita」
     「勝利だ、我が心 Vittoria, mio core」
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by carissimi | 2005-02-09 00:25 | カリッシミ生誕400周年
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