オラトリオ編 プログラム
ジャコモ・カリッシミ生誕400周年記念コンサート
「オラトリオ編」
2005年7月22日(金)東京カテドラル聖マリア大聖堂

【プログラム】

第1部

1. Annunciate Gentes 人々よ、告げ知らせよ

2. Exurge cor meum 我が心よ、弦の響きに立ち上がれ
1声と2本のヴァイオリンのためのモテット

3. Jephte エフタ

♪♪♪ 休憩(15分) ♪♪♪

第2部

4. O Stupor et gaudium おお、驚きと喜び
2声と2本のヴァイオリンによるアッシジの聖フランチェスコに捧げるモテット

5. Jonas ヨナ


ソプラノ:長田晶(3,4,5)、小池智子(1,3,4,5)、
アルト:穴澤ゆう子(1,3,5)、彌勒忠史(1,3,5)
テノール:櫻田亮(2,3,5)、長尾譲(1.5)、
バス:萩原潤(1,5)、小田川哲也(3,5)

バロック・ヴァイオリン:益田弥生、伊左治道生
バロック・チェロ:西澤央子、ヴィオローネ:西澤誠治

指揮&オルガン:ジャンルーカ・カプアーノ


§ご挨拶
 みなさん、こんばんは。今夜、日本での初めてのコンサートを指揮することに、とても大きな楽しみと喜びを感じています。これまでこの素晴らしい国の生活習慣、伝統、そして芸術についての記事をたくさん読みましたが、いまそれらの全てを自分のこの目で見るチャンスと、その代わりに私とイタリアの芸術を皆さんにお届けするチャンスを得ることができました。
 私はカリッシミの音楽に多くの時間を割いてきました。そして今年は彼の生誕400年にあたるということで、世界的にみても充分に演奏されているとは言い難いこの偉大な作曲家の姿を、ヨーロッパでも数多くのコンサートで取り上げる機会を持つことが出来ました。彼の音楽的遺産を襲った大変な不幸(1773年のイエズス会解散により完全に散失)のため、彼の作品の大部分は未だ世に知られていないままです。彼の手によって書かれたと確定される音符はただの一つも現存しておらず、そのため彼の作品の原作者推定には大変な困難を伴います。にもかかわらず彼の音楽は、バロック時代の音楽の最高峰のひとつとしてそびえ立ち、また歴史的により幸運だったその時代のもう一人の巨匠、クラウディオ・モンテヴェルディとも並び称されるのです。カリッシミの音楽を聴いた方はすぐに彼の音楽の偉大さが分かるでしょうし、今夜演奏される2つのオラトリオ、《エフタ》と《ヨナ》はその中でも最高傑作です。私はミラノでカリッシミ協会マヌサルディ資料館、これは銀行員であった故ジャンマルコ・マヌサルディ氏の先見の明と彼の情熱により、ヨーロッパ中の図書館からカリッシミの楽譜またはそれと推定される資料が集められた、この作曲家に関しての世界で最も充実した資料室ですが、そこに関わるという名誉に浴しています。今夜演奏される楽譜はそこに所蔵されているものです。
 また私は、バロック音楽への情熱に後押しされて、演奏実践をより深めるためにヨーロッパにやってきた多くの優秀な日本人音楽家たちと、彼らの祖国で、このコンサートを共演することができ、大変幸せです。すでにイタリアで彼らの多くと、一緒に仕事をする喜びを持つことができました。彼らは、人類にとって失うことの出来ない財産であるこの音楽の未来に大きな希望をもたらす、新しい世代を代表する音楽家たちなのです。
ジャンルーカ・カプアーノ

§「オラトリオ」における宗教音楽としての「オラトリオ」
 「オラトリオ」という単語は、1500年以上の長きに渡って用いられてきたオラトリウムというラテン語を基にしたイタリア語であるが、その言葉の歴史の長さ故時代によりその意味するものは、場所から、そこに集まる人々、その音楽、そして一定の形態をもつ音楽様式を指す言葉へと重層的に広がっていった。
 そもそも、キリスト教が公式に認可された紀元4世紀から5世紀にかけて、信者たちは、神へ、そして犠牲となった仲間たちへの祈祷を行う小さな建物のことを「オラトリオ」と呼び習わしていたが、それは、古代アッシリアのアラム語で書かれた聖書外典「ユディトの書」の当時作成されたラテン語訳版から明らかになっている。そして中世末期になると、この「オラトリオ」という言葉は、殉教者を悼み讃える祈祷の場を意味するだけでなく、そこに集まった信者たちのグループである信心会、そしてまたそこで行われる宗教音楽全体をも指すようになっていった。
 「オラトリオ」という一つの言葉で音楽までが意図されるほど、音楽が「オラトリオ(祈祷所)」はじめ宗教活動の核となり得たことは、キリスト教がその活動の初期から多くの聖歌(これらがグレゴリオ1世(590-604)時代に編纂され、後に「グレゴリオ聖歌」として呼ばれるようになる)を用いて礼拝を行い、11世紀までには初期ポリフォニーを通して聖務日課を音楽と共に行うに至っていたことに触れるだけで十分であろう。13世紀、すべての富を慈善のために費やしたアッシジの聖フランチェスコが没すると、彼の後を追うかのように、苦行を経ることで改悛を行おうとする信徒会が各地に次々と設立される。そこでは、礼拝の一環として福音書や旧約聖書を舞台化した演劇を行うとともに、宗教歌ラウダを歌いながら諸行事が進められていた。ラウダと呼ばれたこの単旋律の簡単な音楽における対話構造、これが、音楽的な意味でのオラトリオの源流として今日考えられている。 
 その後、宗教音楽としての「オラトリオ」の成立において、最も影響を与えた者に、フィレンツェ出身のフィリッポ・ネーリ(1515-95)のローマにおける布教活動があげられよう。彼は1552年頃、ローマのサン・ジローラモ・デッラ・カリタ教会の司祭となり、非公式に集会を始めるが、そこで彼は、典礼周期と平行してそれぞれに音楽を割り当て、音楽と共に宗教的修養を図っていた。この集会は、1575年、グレゴリオ3世によって公式に認められるようになるが、それまでにネーリのこの態度は当時のローマ市民はじめイタリア全土から人気を集め、オラトリオ(建物)とオラトリオ(音楽)の概念が、一つの分かちがたいものとして、人々へ認識させる大きなきっかけを作ったのであった。
 ネーリの活躍した時期のローマでは、同時にまた、聖十字架上のキリスト会をはじめとする多くの信心会組織が存在し、ラテン語テキストによる本格的な宗教的ドラマを行うことで、礼拝における音楽の位置を高めていたが、その音楽自体も、イタリアに帰化したオルランド・ラッソ(1530/32?- 1594)に代表されるフランドル人音楽家達、そしてネーリとも同じ信心会を通じて密接なつながりを持っていたローマ教皇庁作曲家パレストリーナ(1525/26-94)などイタリア人音楽家によって次々と新しい様式が開発され、「オラトリオ」は常にその新しい試みの披露の場ともなっていった。中でも、前世紀まで隆盛を誇ったポリフォニックなマドリガーレの芸術的遺産をモノフォニックに扱うことで、後にオペラを準備することにも繋がるモノディー様式を生み出したことは音楽史上極めて重要な出来事であり、その試みは、1600年にネーリのオラトリオ(祈祷所)で上演された、エミーリオ・デ・カヴァリエーリ作曲の《魂と肉体の劇》において結実することとなった。これらの過程において、オラトリオにおける礼拝に欠かせない劇的な構造、つまり語り手と物語の登場人物による対話形式が、このような音楽形式を作り出すにあたり重要な役割を担っていたことは明らかである。 
 このような過程を経て、「オラトリオ」とよばれる語は、宗教的音楽劇のジャンル全体をも規定し、表象するようになっていく。17世紀後半以降、18世紀にかけては、イギリス、ドイツ、フランス、イタリアそれぞれの国で「オラトリオ」は独自にその道を歩み始めるが、基本的にその姿は、ラテン語、或いはイタリア語による宗教的歌詞を持ち、独唱、重唱、合唱、管弦楽のための総合的かつ大規模な作品であり、所作、舞台、衣装、演技を伴わず上演され、さらに語り手が物語を進行させるものとして特徴付けられる。
 しかしながら、実際には各地のオラトリオ/教会において執り行われた多くの宗教行事に欠かさず作曲されたモテット、カンタータ、宗教オペラ、そして受難曲という他の宗教曲とオラトリオとの間に違いを明確にすることは、上記の区分だけでは不十分であり、様式研究を行う研究者間でその定義に関する見解は一部異なっている。
 
§ジャコモ・カリッシミ
 簡単にオラトリオの歴史を振り返ってみたが、17世紀から18世紀にかけて各国において隆盛したオラトリオの礎を築いたと考えられているのが、本年で生誕400周年を迎えるジャコモ・カリッシミであった。
 彼は1605年教皇領マリーノで生まれ、1674年ローマで没した作曲家で、最初アッシジ、続いて若干24歳のときにはすでにローマの聖アポリナリス教会における作曲家兼聖歌隊指揮者として採用され、その後長らく同施設において活躍した音楽家である。彼は、そのキャリアからも明らかなように、とりわけ聖書、宗教的寓話に基づく宗教曲の分野で主に活躍し、数多くのモテット、カンタータを作曲した。中でもオラトリオは彼の主要な作曲ジャンルであり、今日ニューグローブ音楽事典(2001)によると16作(うち5作は真作かどうか疑わしい)、カリッシミ研究者L.ビアンキ(Bianchi, 1969/ 日本語改定版, 2005)によると30作がその成果としてあげられている。なお、両者における作品数の異なりは、先に触れたように、オラトリオ形式そのものに関する視点の
相違のみならず、彼の確実な自筆譜が今日現存しないため、真作かどうかの判断の余地が未だ残されているためである。
 彼のこれらのオラトリオは、イストリクスと呼ばれる語り手により物語が進められることによって特徴付けられる。この語り手は、しかし、バッハの受難曲における福音史家のように一人の歌手によって担当されるものではなく、何人かの歌手、ならびに合唱に交互に割り当てられるもので、したがって音楽上の興味も、瞑想と訓戒と語りの要素として筋の進展を叙情的に描写する語り手としての合唱の部分、ならびにその語り手と独唱の対比(レチタティーヴォとアリア的な部分は、移行部を介さず交互に現れる)の部分にある。また、独唱におけるモノディーの部分は、専ら言葉のアクセントに従った旋律と、単純な和声と正確なリズムによって歌詞が際立つよう意図されているが、さらにカリッシミはここで単語の意味を音楽で表現するために、モンテヴェルディのレチタティーヴォ形式のような不協和音や跳躍進行、装飾音などを使用している。
 このような、純粋に音楽のみで劇を作り上げる彼のオラトリオは、もはや1600年にネーリのオラトリオで上演されたカヴァリエーリの《魂と肉体の劇》に代表されるような、登場人物が次々と舞台に登場し、モノディー風に舞台上でドラマを演じる聖人劇(サクラ・ラップレゼンタツィオーネ)の「オラトリオ」のあり方とは大きく異なったものとなっている。この“新しさ”は、当時反宗教改革の精神にのっとった新しい宗教音楽を求めていたイエズス会の意向にそぐうものとして教会から高く評価されたばかりか、視覚に頼らずとも十全に劇における感情を表現する手法、とりわけ後のドイツ・バロック音楽においてフィグーレンレーレと呼ばれ研究されてゆく音楽上のレトリックなどの技法は、各国の音楽家たちを欧州中から引きつけることになる。それら弟子には、後にバッハやヘンデル、テレマンに影響を与えることとなるアゴスティーノ・ステッファーニ(1654-1728)、18世紀のナポリ楽派の隆盛に大きく貢献したアレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725)、それからドイツ・オラトリオの祖といわれるシュッツの弟子であったクリストフ・ベルンハルト(1628-1692)、さらには、フランスにおいて新たにオラトリオの伝統を打ち立てることになるマルカントワーヌ・シャルパンティエ(1643?-1704)らがいたが、このようにしてカリッシミの劇音楽の技法は、“汎オラトリオ”として各国のオラトリオ、さらにはオペラの源流となっていくのであった。

§今夜のコンサート
 カリッシミの生誕400年を記念する本コンサートでは、旧約聖書に題材を求めたラテン語オラトリオから、《エフテ》、《ヨナ》の二作を中心に取り上げる。
 両作品は、カリッシミの真骨頂となる簡潔かつ劇的な作曲手法が存分に生かされたもので、彼の代表作として知られている。作品の概要は後の項を参照されたいが、両作品ともその物語の規模に比べ、演奏時間は後世のオラトリオのように長大なものではなく、劇中の各エピソードはむしろ足早に経過することとなる。しかしそれは決して空疎なものとはならず、カリッシミによってそれぞれの場面の本質的な情感が豊かに音楽化され、まさに宗教的エピソードに相応しい、鳴り響く聖書とも言える仕上りになっている。次々と現れるエピソードを“耳で観る”にあたって、皆様には、平安絵巻物、あるいは教会の側廊に嵌め込まれたステンドグラスに描かれた一連の教訓的物語図を見るときに必要となる態度 ——<ゆっくり歩きながら、次や後ろの絵も視野に入れつつそれぞれの絵を順にたどって見る>—— を思い出しながら、音楽のもつ力によって喚起される物語の情景を胸のうちで少しでも辿って頂くことができれば本演奏会は成功である。

§《エフタ》
 《エフタ》は、旧約聖書のなかでも、とりわけ紀元前13-11世紀半ばまでの事柄を描いた、判事の書、通称《士師記》にその題材を求めたオラトリオである。作曲年代について詳しいことは分かっていないが、A.キルヒャーの1650年刊行《Musurgia universalis》において本作品が言及されていることから、それ以前に完成されていた ものと推定されよう。
 タイトルとなるエフタは、イスラエルの勇士であり、アンモン人たちに対して戦争を仕掛けようとしている。いざ出立に際し、彼は神に対して、もし勝利を治めれば自分の家から出迎えるものが誰であってもそれを神への供物とすると願をかけるのであった。二十の町を襲った戦はエフテ側の勝利に終わり、華々しく祖国に帰還すると、まず彼を真っ先に迎えた者はその意に反して、一人娘とその連れであった。神への誓いと娘への情の狭間にエフテの気持ちは揺れ、「お前が私を打ちのめし、お前が私を苦しめるものになるとは」と独白するも、その訳を聞いた娘は毅然と神への犠牲となることを決意する。しかしすぐに彼女は、当時の女性の夢であった、結婚し母となることがもはや叶わないことを悔やみ、その不幸を嘆くため2ヶ月の巡礼の許しを父に請うと、連れの女たちと山々を彷徨う。期限となり帰って来た娘は、皆に惜しまれながらその首を差し出す。
 この神への義務と、肉親の情の相克を描く劇の基本構造は、アブラハムと息子イサクの物語、それからモーツァルトも《イドメネオ》(1781)として作曲した、クレタ王イドメネオの物語(トロイ戦争から帰還するイドメネオは、途中嵐に遭遇し、最初に会った人を犠牲にすると海神ネプチューンに願をかけ助かるが、彼が海岸に着いて最初に出会ったのは自分の息子であった。)と極めて似通っている。しかし、これら二つの物語が最終的に神の介入によりハッピーエンドで終わるのに対し、本オラトリオにおいては、娘は犠牲を免れることなくあくまで悲劇としてその幕を閉じることとなる。
 本作品の構成は、語り手たちと、主役陣エフタとその娘の独唱が交互に表れることでその物語の進行が行われ、楽曲は全部で25節に分かれている。しかし作品は、出陣から勇ましく帰還するまでの場面(1-12節)、そしてその後に訪れる嘆きの部分(13-25節)それぞれにクライマックスがおかれ、大きく二部に分けて提示されることが意図されているといえよう。
 前半部分の最終節における、勝利した父を喜んで迎える娘の歌は、もっと華やかに喜びに満ちたものであっても良いのに、時折みせる不安定な和声が後半で起きる悲劇を予兆させている。また後半部分、エフテが娘を見て嘆く場面においては、おそらく本作品が書かれた同じ時期、モンテヴェルディが《ポッペアの戴冠》(1642) において元老セネカが自殺を図る場面で用いた半音進行と同種の進行を置くことで、音楽上の“悲しみ”を表している。その後、娘が巡礼に赴き、自分の処女を嘆く一節においては、各楽句の後に、他声部がエコーとしてそれを模倣するが、山中での巡礼における嘆きが山々にこだましている様を具象しているといえよう。合唱による最終場面においては、各声部をポリフォニックに配置することで、寄せては引く波のように「彼女を哀れみたまえLamentamini」という歌詞が繰り返され、作品をドラマティックに締めくくっている。

§《ヨナ》
 旧約聖書における最後の「預言者」の出現を題材にしたラテン語オラトリオで、《エフタ》と同じく、1650年以前に作曲されたものであると考えられている。
 あらすじは、アッシリアの首都ニネベが苦境にたったため、神はヨナにニネベに行き伝道を行うよう直接彼に語りかける。ヨナは、しかし、そのバスで歌われる神の声があまりに恐ろしく感じたため、そこから逃れようとして船に乗り込む。ヨナを乗せた船が航海をはじめると、すぐに暴風雨が起き、乗組員たちは神への祈りを捧げ始める。船中で眠っていたヨナは目を覚まし、その原因が自分であることを告白し、荒海に身を投じる。神はそこで鯨を差し遣し、ヨナを飲み込ませ、彼を腹の中に収めてしまう(ヨナ は3日間鯨の腹の中にいるが、これはイエスの受難による死と3日後の復活を暗示するものである)。鯨の腹の中でヨナは失意のうちに懺悔を行い、神の正しさを全面的に認め、哀れみを請う。3回目の祈りの後、神は彼を赦し、預言者を地上に戻すよう鯨に命令する。するとニネベ人たちは、それまでの罪を懺悔し、最終的に「我らは改宗しましたconvertemur」と合唱し、神への慈悲に感謝しながら曲を終える。
 作品では、嵐で荒れ狂う空と海と、それに恐れ戦く水夫たちの祈りの連続する描写において、2部の合唱の対位法的手法が用いられることで厳しい緊張感が表現されている点、そしてヨナの懺悔における深い苦しみから、赦しを得て、カタルシスとして表れる安息感の対比の素晴らしさが注目すべき箇所となろう(この合唱は音楽史上初めて現れる「嵐」の音楽的描写である)。また、ヨナが「怒りを静め給え、神よ、赦し給へ、神よPlacare Domine, Ignosce Domine」と預言者の言葉そのままに神へ呼びかけを行う場面に、カリッシミは短3度の印象的な跳躍音型を置いてこの言葉を印象付けるが、さらにその呼びかけを3度繰り返すことによりヨナは最終的な赦しを得ることになる。この部分では、父と子と精霊の三位一体、つまり完全を表す3という数字が音楽上のレトリックとして扱われ、作品構造を規定していると考えられるのである。 

山田高誌(音楽学・日本学術振興会特別研究員、イタリア国立バーリ音楽院音楽研究所客員研究員)

§カリッシミの新たなる真作?
 このモテットの歌詞は、アッシジの聖フランチェスコ大聖堂の上部聖堂にあるジョットのフレスコ画「火の車の幻視」の情景である。旧約聖書の列王記下2:11−12に、基づき、またキリスト変容の場面のイメージを借りて預言者エリアの姿にフランチェスコを重ね、彼を第二のエリアとする当時のフランシスカンの神学が下敷になっている。
 フランチェスコは帰天するとまもなく聖人に列せられ、彼の祝日を祝うための聖務日課が1230年から35年にかけてフランチェスコ会士の音楽家,スピラのユリアヌスによって作られた。O stuporはその聖務日課の一部で、典礼的には第一晩課マニフィカートのアンティフォナである。フランチェスコが洗礼を受けたアッシジの聖ルフィーノ大聖堂の楽長を務めたカリッシミは当然フランチェスコ会の典礼を身近に経験しながら仕事をしたであろう。しかしカリッシミはこれを典礼の脈絡から離れて<2声と2本のヴァイオリンによるアッシジの聖フランチェスコを讃えるモテットMotetto in onore di S.Francesco d’Assisi a 2 canti e 2 violini ‘O stupor et gaudium’>として作曲している。
 この作品のオリジナル楽譜はアッシジ大聖堂に付属するコンベンツァル聖フランチェスコ修道院内の図書館であるアッシジ市立図書館の手稿譜部門に[Anonimo 2200]として作者不詳のまま登録されているモテットである。同図書館はこれをカリッシミの真作とし、またカリッシミの自筆楽譜であるとしている。カリッシミの自筆がアッシジのどこかにあるはずだと、期待を持って探していた同修道院のアルビーノ・ヴァロッティ神父がこれをカリッシミの物であると同定し、1967年8月4日付けのL’Osservator Romana紙に発見記事が掲載された。しかし、本日の指揮者カプアーノ氏をはじめとするカリッシミの研究者の多くはこの自筆楽譜の真偽について、また作品のオーセンティシティについても未解決の問題を残しているという立場である。
しかしながら、2001年版のNew Grove音楽辞典には、この作品は作品表のモテットの項に加えられている。ただし、New Groveの記載では[O stupor I-Ad]となっているが、この所蔵情報は間違いである。Adはアッシジ・ドゥオーモ(聖ルフィーノ)を指すが、正しくはAf、もしくはAcである。
 2000年の春、アッシジの図書館を訪れたとき、同行した小澤路華さんと共にこの楽譜を見た。帰国後、これがフランシスコへの嘆願の祈りであることに気づき、小澤さんに損傷の激しいオリジナル楽譜を見やすい現代譜に転写してもらった。これに基づき、いつか日本初演を、という願いが思いもかけず小池さんとカプアーノ氏の尽力でここに叶ったことを心から感謝している。
杉本ゆり (音楽学・グレゴリオの家勤務)
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by Carissimi | 2005-07-24 10:24 | カリッシミ生誕400周年
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