カンタータ編プログラム
ラ・カンタテリーア/イタリア・カンタータ・シリーズ第2回
ジャコモ・カリッシミ生誕400年記念
17世紀前半ローマのカンタータ
(2005.7.5.同仁教会)

第1部
パオロ・クァリアーティ
1) <Io vo cantar mai sempre 私はいつまでも歌いたい>

ドメニコ・マッツォッキ
2) <Spogle, che fosti un tempo カルタゴよ、お前は優しく愛しかった>

ドメニコ・クリヴェッラーティ
3) <Amore il mio tormento 愛の神よ、戦に駆り立て平穏を与えぬものよ>

ヴィルジーリオ・マッツォッキ
4) <Sdegno campione audace 怒りよ、戦いの裁きを下す勇敢な勝利者よ>

ヨハン・ヒエローニムス・カプスベルガー
5) <Passacaglia パッサカリア> テオルボ・ソロ

オラーツィオ・ミーキ
6) <Su l'oriente 東の空に朝焼けは微笑み>

ルイージ・ロッシ
7) <Fanciulla son io 私は愛を知らない乙女>
8) <Tutto cinto di ferro 鎧と武器を身にまとった>

♪♪♪  休憩(15分)♪♪♪

第2部
ジャコモ・カリッシミ
9) <Vittoria, Vittoria mio core 勝利だ、我が心よ>
10) <Piangete ohime', piangete おお、泣きなさい>
11) <Nella piu' verde eta' 青春時代の最も活き活きとした頃には>
12) <A pie' d'un vero ある日緑なす月桂樹の元で>

アンコール
ジャコモ・カリッシミ<Rimanti in pace 安らかに眠れ>

≪ご挨拶≫

 本日はカンタテリーア(「カンタータ屋」という意の造語)にご来店(場)いただき、誠にありがとうございます。2003年1月の第1回目コンサート以来、しばらくぶりの開店です。
 前回は、カンタータという分野が誕生した17世紀初期のヴェネツィアのカンタータを演奏いたしました。今年は、ローマで活躍したジャコモ・カリッシミの生誕400年にあたることから、17世紀前半のローマのカンタータを集め、カリッシミまでの流れを追っていきたいと思います。
 当時ローマでは、高位聖職者の宮殿に多くの音楽家が出入りし、競って音楽会が催されていました。また、多くの優秀な歌手が存在し、そのおかげで室内声楽曲は大きく発展しました。
 今年は奇しくもローマ法王ヨハネ・パオロ2世が没し、新法王ベネデット16世が誕生し、世界中がローマに注目した年でもありました。カトリックが国教でない私たち日本人が、現在とは大きく違うであろうその当時の法王や周辺の聖職者の生活を伺い知ることは容易な事ではありませんが、バロック時代のローマで栄えた今回のローマのカンタータを通して、少しでもその当時のローマの音楽界を垣間見ていただければ幸いです。
                             小池 智子・櫻田 亮


≪17世紀前半のローマのカンタータ≫

 17世紀初期にヴェネツィアで誕生したカンタータが、17世紀を通じてその発展の地となったのはローマであった。その背景には、枢機卿などの高位聖職者や亡命王女などの音楽や芸術の後援者とローマの優秀な歌手達の存在があった。
 17世紀初期のローマは、作曲家や演奏者を援助する力と富を持った高位聖職者の館で、オペラや室内楽が発展していた。自ら作詩作曲、またオペラの台本を手がける聖職者もいた。その中でも代表的な存在は、1623年にウルバヌス8世を輩出したバルベリーニ家である。ウルバヌス8世となったマッフェオ・バリベリーニ(1568-1644/在位1623-44)は、二人の甥フランチェスコ(1597-1679)とアントーニオ(1607-71)を枢機卿に任じ、熱狂的音楽の後援者であった彼らの館はローマの文化の中心となった。マッフェオ自身も詩を作り、それらにD.マッツォッキやJ.H.カプスベルガーなどが曲を付けた。またフランチェスコは、1632 年の謝肉祭に宮殿内にオペラ劇場を作るなど、ローマでのオペラの土台を作った。ウルベヌス8世の死後、バリベリーニ家の没落後もコロンナ、パシフィーリ、オットボーニなどの枢機卿やルスポーリ公爵、またローマに亡命したスェーデンのクリスティーナ女王(1626-89)などのサロンにおいて、聖俗双方の流行分野すべての音楽が競って演奏された。
 特に、1654年に王位を放棄したクリスティーナ女王は1655年から1689年に亡くなるまでローマに住み、彼女のサロンはローマの芸術の中核をなしていた。それまで教皇の影響下にある枢機卿達の元にあったローマの音楽生活は、4人の教皇の死がローマに混乱をもたらすような時も彼女のおかげでほとんど影響を受けなかった。彼女のサロンでは、G.カリッシミ(1605-1674)、A.ストラデッラ(1639-82)、A.コレッリ(1653-1713)など当時の主だった作曲家達が活動しており、若き日のA.スカルラッティ(1660-1725)は彼女の宮廷楽長を務めた。
 また、当時教皇礼拝堂や市内の教会の聖歌隊には、厳しい歌唱訓練によって優れた歌手が多く存在し、彼らは聖と俗の区別なく活動していた。その訓練については、A.A.ボンテンピの著書「音楽の歴史(1695)」に次のように記されている。『ローマの学校は、経験を積むために難しく厄介な歌を歌うこと、トリルの
練習、装飾的なパッセージの実習、歌詞の研究、声楽実習と歌唱法の復習を、生徒たちに午前中各1時間ずつ課した。これらの課程はウェストにも額にもまつ毛にも口にも見苦しい動きが少しでも出ないように鏡の前で、教師の監督下で行われた。午後は、理論を半時間、定旋律に基づいて対位旋律を作ることを半時間、記譜された対位法書法を1時間、さらに歌詞研究に再度1時間を費やし、残りの時間は自分の好みでチェンバロの練習や、聖歌やモテット、歌曲などの声楽曲の作曲に充てられた。これらは外出しない生徒達の通常の訓練であった。外出日にはしばしばモンテ・マリオ方面のポルタ・アンジェリカ(天使の門)へ歌いに行き、そこでエコーを聴き自分の声を研究した。また、教会の礼拝で歌い、ウルバヌス8世の統治の下、活躍している多くの歌手の歌唱法を観察した。そして、帰校後学外学習の成果について、教師とともに議論を交わした。それらの訓練は、ローマにおいてヴァチカンの聖ピエトロ大聖堂の楽長であり高名な教師であるヴィルジーリオ・マッツォッキによって生み出され、この技術に新しい光を照らした。』
 このような状況の中で作曲された室内カンタータは広く普及し、ローマ以外の作曲家の手本となった。しかし、ヴェネツィアのカンタータの多くが出版譜として残されている一方、ローマの作品には日付が入っていないうえ、別人の手による筆写譜が複数残されている事が多いために、作曲年代や作曲家本人の手稿譜を正確に調べることは大変難しい。
 17世紀中頃までのカンタータは、一定の形式を表すものではなかった。主に小規模なアリア(歌唱)からなる「アリエッタ・コルタ(短い小アリア)」と語りを主とするレチタティーヴォ(叙唱)と様々な様式のアリアが交互に現れる「アリア・ディ・ピゥ・パルティ(多部分から成るアリア)」の二つのタイプに分けられる。「アリエッタ・コルタ」は初期のカンタータでは多く見られ、同じバスと歌の旋律が1番2番と繰り返される有節形式と同じバスに歌唱部分が自由に変化する変奏有節形式(第3、7曲)が大部分を占める。また、チャッコーナ(第4曲に一部使用)など一定のバス進行を持つ作品や、後の多くのカンタータのアリアに現れる「ダ・カーポ・アリア(ABA形式)」(第9曲)など、様々な音楽形式を含んでいる。一方の「アリア・ディ・ピゥ・パルティ」は、小品(第1、4、6、10曲)からカッチーニやモンテヴェルディの「レチタール・カンタンド」の流れを組む長いレチタティーヴォと短いアリアを含む大規模な作品(第8、11曲)まであり、時代が進むにつれレチタティーヴォとアリアの重要性が変化していく。叙情的もしくはいくらか劇的な詩を持ったレチタティーヴォとアリアの両方で構成される「アリア・ディ・ピゥ・パルティ」は、17世紀中頃のカンタータの最も一般的なタイプとナリ、バロック後期になるとスカルラッティやヴィヴァルディのカンタータに見られるように、短いレチタティーヴォとアリア(ダ・カーポ)が増え、このような様式の作品が以後「カンタータ」と呼ばれるようになる。
 

≪ジャコモ・カリッシミの生涯とそのカンタータ≫

 1605年ローマ近郊で職人の末子として生まれたカリッシミは、ティヴォーリ大聖堂の合唱団員、同聖堂のオルガニスト、アッシジの聖ルフィーノ大聖堂の楽長などを務めた後、1629年にローマにある世界で最も重要なイエズス会修道士の学校のひとつ、コッレージョ・ジェルマニコの楽長に任命され、生涯この地位に留まる。ヴェネツィアの聖マルコ大聖堂でモンテヴェルディの後継者や、オランダのハプスブルグ家の宮廷楽長また神聖ローマ皇帝に仕える話などを断っていることからも、彼がこの学校で学生の音楽教育や学校付属の聖アッポリナーレ教会での音楽活動などに満足していたと思われる。また1656年にはクリスティーナ女王から宮廷楽長の称号を授けられた。
 カリッシミは生前からカンタータ作曲家としての名声を欲しいままにし、その発展に大きく貢献した。それは彼の最も重要な先達であるルイージ・ロッシに直接的な影響を受け、145曲のカンタータには、ロッシの作品同様「カンタータ」という名の下、主に4つの形式が隠されている。最も一般的なタイプは、レチタティーヴォとアリアが自由に継起する「アリア・ディ・ピゥ・パルティ」(第11、12曲)であり、アリアの部分はダ・カーポ形式やロンド形式、有節形式をとることがある。他の3つのタイプは、アリア
(第9曲)、有節変奏、アリオーゾ(第10曲前半)である。それらの書法は、彼の宗教曲と同様に単純でシラビックであり、主として全音階的な音程と分散された三和音であるが、時折歌詞が霊感を与えるところでは、装飾、跳躍などヴィルトゥオーゾ的技巧を用い、特に嘆きや苦しみの表現には特別な和声的効果を有効に使用した。当時賞賛されたこうした技巧や効果は、当時の宮廷や豪邸の舞台で演奏された音楽の華麗さと哀切さを彷彿とさせるようである。
 通奏低音だけを伴い様々な形式を示すカリッシミの独唱カンタータは、頂点を極めこのようなカンタータの発展は一段階の終わりを告げた。その後レチタティーヴォとアリアの分割が進み、アリアがダ・カーポ形式を取る傾向が強まっていった。
 

≪曲目解説≫
 
1) パオロ・クァリアーティ (1555年頃ヴェネツィア郊外キオッジャ - 1628年ローマ)
<Io vo cantar mai sempre 私はいつまでも歌っていたい>
キオッジャの貴族出身であるクァリアーティは、1574年より没するまでローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会のオルガニストを務めた他、枢機卿ファルネーゼやルドヴィージ家に仕え、枢機卿アレッサンドロ・ルドヴィージがローマ教皇グレゴリウス15世に就任した1521年には、最高記録官件教皇私室長官に任命されている。この曲が収められている作品集《調和のとれた宇宙》は、1623年にルドヴィージ家のニコロ・ルドヴィージと作曲家ジェズアルドの娘イザベッラの婚礼の際に作曲され、いくつかのヴァイオリン付き含む多くの独唱曲と二重唱曲が収められている。この作品と他の数曲は1608年の<4声のマドリガーレ>から編曲された。彼がキオッジャにいた頃、ヴェネツィアの書法から影響を受けたと思われるヴァイオリン付きのコンチェルタート形式は、一環して主に全音階的明瞭な和音を用い、簡素かつ優雅である。この作品は、「カンタータ」とは題されていないが、このように3拍子のアリエッタと4拍子のレチタティーヴォが交互に現れる形は、当時のカンタータの中に多く見られる。

2) ドメニコ・マッツォッキ (チヴィタ・カステッラーナ - 1592年受洗 - 1665年ローマ)
<Spoglie, che fosti un tempo カルタゴよ、お前はかつて優しく愛しかった>
故郷の神学校で弟ヴィルジーリオと共に学び、1619年には司祭に任命されたが、1621年に枢機卿イッポーリト・アルドブランティーニに音楽家として仕え始める。この作品が収められる《宗教的・論理的な音楽1640》は、枢機卿の姪オリンピア・アルドブランディーニ・ボルゲーゼに献呈された。また、枢機卿A.バルベリーニの叔父教皇ウルバヌス8世は後援者であり、聖職者として同僚でもあった。彼の現存する唯一のオペラ《アドネスの鎖》は、1626年にバルベリーニ劇場で上演された。彼のこの最後の室内声楽曲集には、1声から4声のレチタティーヴォ、有節変奏など多様な作品が収められている。ローマの詩人ウェルギリウスの叙事詩《アエネイス》から枢機卿ロベルト・ウバルディーノが作詩しダイドーの嘆きを描いたこの作品は、4節から成る「ロマネスカ」として書かれている。

3) ドメニコ・クリヴェッラーティ (ヴィテルボ生1628年頃活躍)
<Amore il mio tormento 愛の神よ、戦に駆り立て平穏を与えぬものよ>
ヴィテルボに住むアマチュアの作曲家であったと思われ、本作品が収められている1声から3声と通奏低音のための《様々なカンタータ集1628》によってのみ知られる。収められている21曲中、1620年代のカンタータと類似する曲は、この作品のようなマドリガーレ風で変奏有節形式の2曲のみで、ほとんどが単純な有節形式の作品である。

4) ヴィルジーリオ・マッツォッキ (チヴィタ・カステッラーナ生 - 1597年受洗 - 1646年チヴィタ・カステッラーナ)
<Sdegno campione audace 怒りよ、戦いの裁きを下す勇敢な勝利者よ>
ドメニコ・マッツォッキの弟で、ローマの複数の教会の楽長を務めた後、1629年から没するまで聖ピエトロ教会のジュリア礼拝堂の楽長を務めた。聖歌隊員に対して厳しい音楽訓練を課し、聖歌隊のレベルを上げた優秀な教師でもあった。レチタティーヴォとチャッコーナが交互に現れるこの作品は、現在イタリア国内の図書館に複数の筆写譜が残っている事からも当時広く歌われたものと思われる。ちなみに本作品の作詞をしたジュリオ・ロスピリオージ(1600-69)は、聖職者であり1667年にはクレメンス9世として教皇に就いた人物であったが、バルベリーニ家のオペラの台本作家としても活躍し、D.マッツォッキやL.ロッシらがそれらに作曲した。

6) オラーツィオ・ミーキ (1594年か95年カゼルタ近郊アリーフェ - 1641年ローマ)  
<Su lユoriente 東の空に朝焼けは微笑み>
ハープ奏者としても名高く「オラーツィオ・デル・アルパ(ハープの)」とも呼ばれた。枢機卿モンタルトや枢機卿マウリーツィに仕え、ベルナルディーノ・スパーダ、A.バルベリーニなどの宮廷で活躍した。約60曲現存する彼の作品の多くは教会カンタータであるが、本作品のように小品ながらアリアとレチタティーヴォの部分を含む様式で書かれた室内カンタータは、L.ロッシや他の後輩達に影響を与えた。

ルイージ・ロッシ (1597年頃トッレ・マッジョーレ - 1653年ローマ)
7)<Fancuilla son io 私は愛を知らない乙女>
8)<Tutto cinto di ferro 鎧と武器を身にまとった(Lo sdegno smargiasso おおげさな軽蔑)>
ナポリで音楽の勉強をした後ローマに移り、サン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会のオルガニストを生涯に渡って務めた。また、ボルゲーゼ家に仕えた後、枢機卿A.バルベリーニをパトロンとした。彼はフランスでも活動したり、彼の作品のいくつかはパリやロッテルダムで出版されるなど、彼の作品はイタリア以外の国に影響を与えた。彼は室内カンタータではローマ屈指の作曲家であり、その筆写譜は他の作曲家のそれより多く、約300曲残されている。それらの多くは<私は愛を知らない乙女>のような明快な形式の「アリエッタ・コルタ」で、この作品はそれぞれAとBの部分が変奏する形で書かれている。このようなタイプの変奏有節形式は、カンタータとしてロッシによって耕された。
一方、「アリエ・ディ・ピゥ・パルティ」である<鎧と武器を身にまとった>には、初期の「レチタール・カンタンド」を思わせる長いレチタティーヴォと器楽の小さいリトルネッロを含んだアリオーゾと最終部にラメント音型のテトラコルド(下降形の4音音階)のアリアが含まれる。「アリエ・ディ・ピゥ・パルティ」は彼の作品の中で5分の1を占めるにすぎないが、後のカンタータの最も一般的なタイプとなる。

ジャコモ・カリッシミ(1605年ローマ近郊マリーニ生 - 1674年1月12日ローマ没)            
9) <Vittoria, Vittoria mio core 勝利だ、我が心よ>
10)<Piangete ohimeユ, piangete おお、泣きなさい>
11)<Nella piuユ verde etaユ 青春時代の最も活き活きとした頃には>
12)<A pieユ dユun vero ある日緑なす月桂樹の元で(I Filosofi 哲学者)>
<勝利だ、我が心よ>は、イタリア古典歌曲集に収められ今世紀まで歌い継がれている作品であるが、現在モデナとボローニャ、ローマ、ナポリの4カ所の図書館に別人の手による筆写譜が残されている。古典歌曲集では2番まで歌詞が付けられているが、モデナとボローニャの楽譜には1番のみ、ナポリの楽譜は3番まで歌詞が書かれている。これらの3つの楽譜がニ長調であるのに対して、残るローマの楽譜はハ長調で書かれているうえ、3ページ中最後のページが筆写されていないため、この楽譜に3番まで歌詞があったのか、あるいはどちらの調が原調なのかを特定するのは難しい。本日は、モデナとボローニャの楽譜に基づいて、ニ長調で1番のみの演奏とする。
<おお、泣きなさい>は、アリアとレチタティーヴォの中間的な性格のアリオーゾと4拍子と3拍子のふたつのアリアを含む3部形式で、2節の歌詞を持つ。
技巧豊かなアリオーゾと3拍子のアリアが交互に現れるリトルネット付きの大規模な作品である<青春時代の最も活き活きとした頃には>の中に、カリッシミは“scherzi 戯れ”“lusingato 虜になった“ “bearla 彼女を崇める”“canto 歌”“stille しずく” “celebrar 讃える”“escalmoユ 叫ぶ”“fior 花”などの言葉にメリスマや跳躍音型を用いたり、 “lacrimar 涙を流す” “morto死ぬ”“tormentarne 苦しめる”などには嘆きや悲しみを表現するために和声的効果を利用している。また、ヴァイオリンが受け持つリトルネッロは、エコー的役割を持っている。なお補作ながら、モテット<O quam pulcra es おお、あなたはなんと美しいことか>にもこの作品とほとんど同じ旋律を使用している。
二人の古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスとデモクリトスが愛について議論を交わす<ある日緑なす月桂樹の元で(哲学者)>では、“piangere 嘆く”“ridere笑う”“fuggi逃げる”“mori死ぬ”“taci黙る”“prega祈る”“tuo desirあなたの願い”“tuo ferita あなたの傷付いた”のような言葉で二つの声部がシーソーのように戯れている。

                                      
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by carissimi | 2005-07-06 22:14 | カリッシミ生誕400周年
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